2014年3月20日木曜日

義母(92歳)が意識不明になり、危篤とされてから約1ヶ月になります。
喪服の支度までしたのですが、幸いにも危篤のまま持ち直したような状態でいます。

今日は毎日母親の様子を窺いに通院している夫に連れ添って、
私もお見舞い方々お顔を拝見しに行ってきました。

鼻には酸素のチューブ、肩には点滴の針が埋め込まれ、下にも、おしょう水の管が
入っていて、時に苦しげに肩で息をして、顔をしかめていました。

意識は全くないようなのですが、義母の名前を呼びますと、気のせいでしょうか、
かすかに目蓋を動かすような気配を感じました。

義母と私とは丁度20歳の開きがあります。
ですから、人事ではなく、20年後の自分の姿を見ているようで切なく辛くなりました。

そして医学の進歩により、意識不明の危篤とされても、尚医療を施して命を存続させる
意義とは・・・?
命を1日でも永らえさせることが果たして人間の尊厳たるを守ることなのでしょうか・・・

私はその時のために、正常な判断の出来るうちに、
治る見込みがない病にかかったなら、一切の治療を放棄する旨を書いた物を
認めて、息子に渡しておこうと決意しております。

家族に命を託すのではなく、夫々が自分の命に責任を持ち、最後の判断は自分で決める。
それをしてこそ、自分の命を生き切るという事ではないのでしょうか・・・

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